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砂時計と額縁

自分が考えたこと、感じたことを切り取って残しておく場所

エネルギーがある人はすごい

大学生のときはゴールデンウィークなんて気にもしませんでしたが、社会人になると貴重な休日がドバッとやってくるので、流石に意識せざるを得ません。

実際僕の連休がどうだったかといえば、適度に予定が入り適度に余暇時間があったので、割といいバランスだったんじゃないかなと思います。

ちなみに今、適度な余暇時間と申しましたが、余暇の適度がどれくらいなのかは人によって違いますよね。僕はあまり活動的ではないので、家でダラダラしたりゴロゴロしたりスヤスヤしたりする時間がけっこう必要ですが、エネルギッシュな人はとにかく外に出たがりますし、そうでなくとも常に何かをやっていたい、ヒマな時間が嫌い、という人はいます。僕にとって丁度いい予定の入り具合も、人によってはヒマだとか物足りないと感じるかもしれません。まぁ僕の休日なので僕がよければそれでいいんですけどね。

今回は別にGWがどうだったかとかそういうことを話したいわけではなく、少し思うところがあるので、エネルギッシュな人たちに対しての羨望の念を綴りたいと思います。

 

僕はエネルギーをたくさん持っている人が羨ましいと感じます。ここで言うエネルギーというのは、肉体的な意味(体力)も含みますが、精神的なエネルギーという意味合いが強いです。

何かにとてつもなく熱中できる人、なんでもとにかく行動に移す行動派・活動的な人、精神的にタフでめげない根性を持っている人、こういった人たちが備えている要素というのは、人が生きていく上で重要なものだと僕は感じています。特に、何か特別なことを成したいと思っている人にとってとても重要だと思います。

上述のようなエネルギーがなぜ重要だと思うのか。それは、人は行動することによって経験を蓄積し、経験の繰り返しによって様々な物事に対して審美眼が養われたり自分で「できる」ようになるからです。

この行動というのは、内面的なエネルギーが自分の外(現実)に向かった結果と捉えてください。いくら頭で考えていようとも考えているだけでは何にもなりませんよね。何事も行動に移さなければ始まりませんし、試行錯誤の中で習熟していくものです。

特に何かを目指していない、目標のない人でも、自分の外にエネルギーを向けて何かにすごく熱中できたら楽しいし、行動派な方がいろんな経験ができるし、タフな方が生きていく上で淘汰されにくいと思います。もちろん、そうじゃなきゃいけないわけでは全くありません。精神的にエネルギッシュな場合そういう性質なりの生活・人生になるという話です。余談だけど仕事しながら同人誌描いてコミケにサークル参加してる人とかマジすごいと思う。

 何か特別なことを成したい人ーー分かりやすく夢がある人としましょうーーにとってエネルギーが特に重要なのは、シンプルに目標のない人よりも必要なエネルギー(行動のレベル)が大きくなるからです。

先程、何事も試行錯誤の中で習熟していくと述べましたが、夢がある人はこの習熟度に一定のラインが存在します。競技種目だと分かりやすいですが、例えば陸上の100メートル走でオリンピックに出場したいのであれば、世界選手権等の大会において、オリンピックに出場できる順位を叩き出すとかそういうことです。

達成したい目標が高いほど求められる習熟度のハードルも高くなりますし、その分払わなければならない労力(必要なエネルギー)も大きくなります。

 

「要するにそれって行動力があって努力できる人が羨ましいってこと?」と思った方、概ねその通りです。さらに言えば、「努力を当然のこととしてライフスタイルの中に取り入れられる人が羨ましい」のです。

例えば画家やイラストレーターの中で、「幼いころから絵を描くのが好きで、ずっと描いていました」という人がいます。というか大抵のイラストレーターってそうなんじゃないかって個人的偏見があるんですよね。その人にとっては好きなことをやっているだけで、努力なんて思っていないんじゃないかとすら考えてしまいます。

もちろんプロとして仕事をする以上楽しいばっかりじゃないことは重々承知です。スポーツでも絵でも楽器でも料理でもカメラでもなんでもそうでしょう。

でも私見なんですけど、絵を描くのが好きで好きでずっと描いてきたプロになるくらいの人って、描かないことよりも描くことの方が自然で、描いていない自分が不自然に感じるんじゃないだろうか、仮に描くことをやめて苦しみから解放されて、楽に生活していける道があったとしても、描いていたい、この道を行きたいと考えるじゃないか、なんてことを思うんです。

今述べたことは所詮僕の妄想です。本当にそうかどうかなんて分かりません。でもそういう人はたぶんいるはずで、そういう人の、居ても立ってもいられない感覚というか、熱烈な思いとか、必然的に行動へと向かう推進力とか、そういう内側から湧いてくるエネルギーが、僕には得難いものなのです

もしかしたら僕は、自分の人生を決定づけてしまうほどの願望に憧れているのかもしれません。だとしたらそれは非常に甘えた憧れです。だって、焦がれるほどの夢を抱いて、叶わなかった人だって大勢いるはずで、叶わないのに諦められないってすごくつらいはずなのに、その苦しみを知らない人間がこんなことを思っているんですから。

それに的外れな憧れでもあります。心理学的に、人間はやる気があるからやるのではなく、むしろ逆で、事に取り組んだらやる気が喚起されてくるのだと言われています。ここまで頭の中で考えて、じゃあやっぱり大事なのって行動力の方じゃん!ってなるし、エネルギーをたくさん持ってる人がやりたいことを見つけて、行動によってやる気を喚起して、自分の夢を叶えていくんだろうなって思うんです。いや、ここまで考えてとか言ってるけどまず仮の話の中の思考なんだよなぁ……。

というかもし実際に僕がそんな憧れを抱いているのなら、僕には諦められない思いがあるのかもしれません。なぜなら僕は前回の記事で書いた通り「自分が欲しいと思っていないものを他人が持っていても、羨んだり妬んだりする必要は全くない」と思っているはずで――と言いつつ、ただないものねだりしているだけの可能性だって十分ありますけどね。人間は愚かな生き物ですから。

真実は僕にもわかりません。

とりあえず、エネルギーがある人はすげえ。

望むところと望まざるところ

前回の記事で、「体力大事」の一言で済む内容を長ったらしく書き連ねたミナモでございます。前の記事を書いた後で読み返しながら思ったことがあるので、今回はそれについて書こうと思います。

以下に前記事のリンクを貼りますが、関係があるのはごく一部なので読んでも読まなくても結構です。

minamofukami.hatenablog.com

 

過去の自己認識

 

前回、僕は「体力だけ有り余っていてもやりたいことがないのは切ない」と述べました。このときの「切ない」という言葉は、少なからず「悲しい」という意味合いを含んだもので、それは僕が意図的に込めたニュアンスです。これは、記事を書いているときの僕の考えで間違いありません。しかし、ふと思ったのです。

「あれ、そういえば当時の俺って自分のこと悲しい奴だとか思ってたっけ?」

高校生のときの自分の気持ちをリアルに思い起こすことはもはや叶いませんが、記憶している限りでは自分をあまり悲しい人間だとか哀れな人間だとか、そんな風には考えていなかったように感じます。

より詳細には、特にやりたいことはありませんでしたし、「やりたいことが欲しい」ともそんなに強く考えていなかったと思います。ただ、友人曰く高校時代の僕の口癖が「なんかおもしれ―ことね―かなー」とのことなので、退屈はしていたようです。

当時のやりたいことというか目標的なものを強いて挙げるとすれば、サラリーマンになるのがイヤだからラノベ作家にでもなって印税生活してえなぁとか舐めたことを考えていた記憶があります。とはいっても何か小説を書いてみるわけでもなく、物語の妄想とかはしてましたが、高校生時代に何か作品を書いたことは結局ありませんでした。

「そんなに強く願っていなかったから書けなかったんだ」と言うと捉えようによっては言い訳のようでもあります。実際当時の僕の行動力を仮にスカウターで図ったとしたら0.0000721とかだったと思うんで(適当)、ある程度強く願っていたとしても長編小説1冊分を書き上げることは相当難しかっただろうと思います。書き上げられる可能性もあったかもしれませんが、どちらにせよ所詮はIFの話です。

ちなみに今の私の行動力は0.53です。言いたかっただけです。ぶっちゃけ分かりません。

話を戻しましょう。とにかく高校時代の僕は「やりたいことが欲しいけど見つからない」、「他の人と比べて充実していないし虚しい」というような方向に意識が向かわなかったので、中高実質帰宅部みたいな経歴の割に(?)異常に卑屈になったり、過剰に自己評価が低くなったりはしませんでした。

要するに当時の僕は、全くないとは言いませんが自分のことを切ない人間だとか悲しい人間だとはあまり考えていませんでしたし(客観的につまんねー高校生活なんだろうなとは思っていました)、自分を変えたい、変わりたいと強く感じることもなかったように思います。

 

説明不足だったこと

 

やりたいことが欲しいけれどもなくって、そんな自分を悲しい人間だと思うのは自然だし、実際そういう人は悲しい人間なんだと思います。

けれども、やりたいことがなくても、そういう自分に不満を持っていなくてこれでいいと思っているなら、それはそれでその人の在り方だし、その人はなんら悲しい人間ではありません。

前回の僕の言葉は、人の状態にのみ目を向けていて、本人の意向を全く考慮していませんでした。「やりたいことがないのは悲しい」だと色々説明不足だったわけですね。「やりたいことが欲しいのに見つからないことは悲しい」という表現が適切でした。

例えば彼女がいらなくて彼女がいない人と、彼女が欲しくて彼女がいない2人の心理を考えてみてください。前者の人は欲しいと思っていないものがないだけなのでなんともありませんが、後者の人は欲しいものが手に入っていないので満たされないという感覚があるはずです。

その人が不幸かどうか、つらいかどうかは単なる状態ではなく、「欲求が満たされていない」「願望がまだ成就していない」「自分の願いは叶わない」という不満や欠落感や絶望感があるかどうかによって決まると個人的には考えています。先程とは逆に、やりたいこと(目的や目標)がある人の場合、目的や目標が達成できない――つまりやりたいことができないことが当然苦悩(悲しみ)になります。

その人の望むところと望まざるところを知らずして「あの人は悲しい人だ」と他人が勝手に断定するのは失礼なことですし、すなわち前回の僕の発言は失礼な発言だったわけです。過去の僕と、目的もなく生きる自分を肯定する全ての人に対して。

 

自分は自分、他人は他人

 

先程、やりたいことがなくてもそんな自分に不満がなくこれでいいと思っているなら、その人は何ら悲しい人ではないと述べました。けれども実際問題、自分の生き方を意固地にならずに自然と肯定できるというのは結構難しいことです。

全く周囲と自分を比較しない人というのは滅多にいるものではありませんから、例えば先ほどの彼女がいらなくて彼女がいない人も、仮に周囲の友人が続々と彼女を作っていったり、その人たちから「お前も早く彼女作れよ」と言われ続けた場合、自分だけ彼女がいないのは居心地が悪いとか、自分だけ劣っているように感じるかもしれません。

そうすると本来的には望まないものを周囲からの見えない圧力のようなものによって結果的に望んでしまうことになりかねません。あるいは、周囲が持っているものを持っていない自分に対して、過剰に低い自己評価を下してしまう場合があります。別に持っていないことが悪いことでも劣っている証拠なわけでもないのに。

特に現代はSNSの普及もあって、他の人が望むものや持っているものが見えやすい。というか、SNSユーザーとしての率直な言い回しをさせていただくなら、見せつけられます。これは別に僕がそれを不快に思うとかそういう話ではなくて、そういう周囲の「こんなことがあった」「今自分はこんなことをしている」に、変に引っ張られちゃいけないよなー、と思うのです。

他人に影響を受けることそのものは悪いことではありません。けれども、周囲と自分の持ち物を見比べて、自分の悪い自己認識を増長させるだけのものなら、そんな比較は不毛です。

他人の持ち物に惑わされないためには、自分が何を望んでいて、何を望んでいないのか少なくとも自覚している必要がありますし、その上で、まぁよく言われているように、自分と他人を比較し過ぎないことが大切なんじゃないでしょうか。自分が欲しいと思っていないものを他人が持っていても、羨んだり妬んだりする必要は全くありません。

自分は自分、他人は他人なのです。

隣の芝は青く見えるものですし、他人が抱えている苦しみというのは自分の苦しみと違ってリアルに感じ取ることはできませんから、そもそもちゃんと比較なんてできていないのです。自分と他人ということに関して有益な比較(分析)もないわけではありませんが、少なくとも先述のような比較は無益どころか有害です。

 

自分の望むところと望まざるところを自覚すること。他人の望むところと望まざるところを知らずして他人を判断しないこと。今回は僕自身のそういった判断基準を自分の中で再確認する機会になりました。僕は他人に必要以上に振り回されず生きていければいいなと思いますし、余計なお世話ではありますが、皆さんも皆さんそれぞれの価値観を大切に生きていけるなら、それがいいと僕は思います。

結局体が資本

みなさんいかがお過ごしでしょうか。僕はというと体調を崩して「なんで体調って崩れるんだろう」「なんで身体ってこんなに不完全なんだろう」「肉体から解き放たれたい」などとぼんやり考えています。

 

体が資本、とよく言われます。何をするにもコンディションが悪いと効率が悪くなってしまったりそもそもできなくなってしまったりするので、仕事をするにしろ遊ぶにしろ、体は大事にしろよという話によく使われる文句ですね。

体が資本というなら、例えば体力が豊富な人間というのはその資本を運用していく(生活していく)中で体力が少ない人間にできないことができます。例えば徹夜で作業したり、睡眠時間を毎日少しずつ削って何か作業をする時間に変換したり。スタミナがあるってだけで実は結構なアドバンテージということです。

そして同時に、資本というのは運用先があって始めて輝くというか、大金を持っていても使い道がなければ虚しいように体力だけ有り余っていてもやりたいことがなかったらそれって中々切ないことだと思うんですよ。

個人的な話をいたしますと、今は一つか二つですがやりたいこともありますし体調を崩せば歯がゆい思いをするようになったのですが、以前の(特に中高時代の)僕であれば、ぶっちゃけ風邪を引いたところで引いていない状態と何かが変わるわけではないというか、体調が良くても悪くてもどうせネットで動画見てるだけだったからどうでもよかったんです。よほどの高熱が出たり重症にならなければ動画くらい見れますからね。

年齢的に若いこともあって何もしなくても健康ですし(いや今も十分若いんですけどね)、毎日そんなに負担のかかる仕事をこなす必要もなかったので、自分の体調を頑張って管理することの重要性はかけらも分かっていませんでした。

やりたいことがある人の方が体という資本を大切に取り扱います。体力だけでなく時間もコストに還元できますから、目的と価値感覚がしっかりと備わっている人ほど日々の生活を無駄なく過ごそうという意識は強くなるのではないでしょうか。やりたいことがある方が生活にはメリハリが出やすくなると考えられます。例えば仕事とかやらなければいけないことでも義務感で生活にはメリハリは出せると思いますが、やりたいことの方がモチベーションはずっと高いので自分の望むことを中心に生活を組んだ方が当然楽しい。やらなければいけないこととやりたいことが一致していた場合は完璧です。勉強が好きだった人は学生時代さぞ楽しかったことでしょう。働くのが好きだという人もいいですね。なんせ起きてる時間の大半は仕事してるんですから、人生が楽しいといっても過言ではないんじゃないでしょうか(過言)

 

さて、ここまでを一度振り返ってみると、人間は皆それぞれの体という資本を所有していて、自分のもっているエネルギーを日々のやらなければいけないこととやりたいこと(仕事や趣味や人間関係)に投資する。そして、資本そのものの豊かさも重要だし、資本の運用先へのモチベーションも重要、ということでした。

ただここで重要なのは、資本の運用先たる趣味等は何歳になっても見つけることは可能ですが、資本である体力は基本的には減っていくということです。ある程度は歳をとっても生活すべてを体力づくりに徹すればあるいは体力が上がるかもしれません。しかし当然現実的にはそんなことは不可能です。仕事がありますから。

この事実に思い至ったとき割と本気で中学の部活半年で辞めたの後悔したよね。別に部活じゃなくたって体力作りは個人でできるんですけれど、しかしもうちょっと早くこの事実が心に響いてほしかった……。

でもたぶん、社会人になる前の僕がこのことにちゃんとした意味で気づくことはなかったんだろうなぁと思いますし、頭では体力の重要性は知っていてもわざわざ体力作りに勤しむことはありえなかったでしょう。この現状はある種宿命なのだ。

個人の経験則ではありますが体力って本当に大事です。体力と気力が十分じゃないと、自分がやりたいと思ったこともできません。学生の皆様は外に出て遊ぶなり走るなりして体力つけとくといいと思います。鬼ごっことかしろ。逆にこの年でやったら楽しそうだし(適当)

とりあえず僕はさっさと回復させて仕事に復帰します。そのあとお外に出て遊びます。

言語化の精度

学生時代にこういう感覚を抱いていた方がどのくらいいるのかは分かりませんが、僕は特に中高時代、大人(社会人)になったらもう人生に楽しいことってあんまり残ってなくて、仕事に追われて日々が過ぎ去ってただ老いて死ぬんだろうなと思っていました。もう少し突飛なことをいえば、「俺って大人になる前に死ぬんじゃね?」なんてふわっと思ったこともあります。

この「死ぬ」という表現は今思えば、大人になった自分の生活がリアルに思い描けないが故に出てきた言葉なのだと思います。大人として生きている自分が想像できないから、じゃあ大人になった自分って存在できないじゃん!っていう、かなりアホな思考回路で考えていたわけですね僕は。

 

言語化というのは非常に難しいものです。僕はこの場で自分の考えや思いを言葉にして切り取るとは申しましたが(前の記事参照)、それって実際かなり難易度の高いことなんですよね。

とある感情や思考や感覚を自分ではAだと思って、Aだと言う。けれども実は思ったことの言語化が上手くいっていなくて、Cという感情をAだと思っていた、とか、あるいは薄々Cだと分かっているけれども口をついて出たのはC´だった、ということが人間には起こり得るわけです。

例を挙げるとするなら、誰か特定の他者に対して非常に個人的な不快感や嫌悪感を持っている人がいたとします。その人は自分が納得できないだけなのですが、その特定の他者について語る際に「あいつの行動は倫理的におかしい」とか一般論で語ることがあります。こういう場合は思いの言語化がきちんと行われていないといえるでしょう。

冒頭の話でいうなら、要するに思春期の僕の「大人になる前に死ぬんじゃないか」という発想は、「大人になった自分の生が想像できない」という感覚を取り違えて認識していたわけです。まぁ本気で社会人になる前に絶命する想像を詳細に思い描いていたわけでもなくって、つまり全然具体的に考えていなかったということです。言語化の精度がガバガバだったということです(思考も言語で行うところが大きいといわれているので、今回は思っただけでも「言語化」の範疇とします)。

漠然とした発言や思考というのは、精度の悪い的外れな言語化の場合があります。しかし一方で、直感的に正解を引き当てているのだけれども具体的に言語(思考)に落とし込めていないだけである可能性もあります。だから曖昧な思いを言葉にすることは本当に難しい。

なにせ正確に答え合わせをしてくれる人がどこにもいないんですから。

そもそも冒頭の僕の思考に関する解釈だって、今回述べたものが正しいとは限らないのです。

間違えたところで誰にどうこう言われるわけではありませんし、なんなら誰かにとやかく言われたところで他人には関係ないんですけれど、せっかく言葉にして自分の思いを残しておくんだから、言語化には細心の注意を払いたいものです。

 

ちなみに、「社会人になったらもう人生に楽しいことってあんまり残ってなくて、仕事に追われて日々が過ぎ去ってただ老いて死ぬんだろうな」というかつての僕の思考についてですが、こちらは当時本当にそう考えていた、はずです。そしてそれが現実のものとなっているかどうかですが……まだ何とも言えません。

まず社会人になってからまだ一ヶ月経ってないし。

総務課付研修生だし。

残業とかもまだほとんどないし(鼻ほじ)。

生活が仕事に支配されるのはもう少し先のことになりそうです。数か月後、数年後、十数年後の僕がプライベートを楽しんでいるのかどうかが、僕個人の人生に対する答えを示してくれているでしょう。

当たり前のことですが、社会人になってからの自分の生活を楽しめるかどうかなんて人それぞれですし、そもそも学生だからみんな毎日楽しいかというと全然そんなことはありませんよね。僕も冒頭のようなことを思っておきながら学生時代が充実していたかというとむしろスカスカでしたし(つらいことや苦しいことに直面してこなかったので快適ではありましたが)。

さて、そんな人間が困難にぶつかった時どうなるのでしょうか~、とか言って早々に辞職することになろうもんならガチでマジで本当に笑いごとじゃなくなるんで、こういう煽り文は控えめに……。

それではまた。

ブログ始めました。

はじめましてミナモと申します。ブログを始めてみました。よろしくお願いします。

頭から駄弁るのもアレですしサクッと本題に入りましょう。今回は第一回目ということで、なぜブログを始めたのかとか、どんなことを書いていく予定だとか、そんなことをお話ししていこうと思います。まぁ話の本筋が駄弁りみたいなもんなので結局あんま変わらないんですけどね。

 

さて、突然ですが皆さんは、「あぁ~芸術家になって今この瞬間を切り取りてえ~」と思ったことはありませんか?

……別に芸術家にはなる必要ないんですけどどうですかね。あっ、それなら分からなくもないと。そうですかありがとうございます。

実際あなたがそう思ったことがあるかどうかは確認のしようがありませんが、僕はあります。今自分が味わっているこの感覚を切り取って保存しておきたい、何らかの方法でこの瞬間を抽出して、残しておきたい、と。この感覚が発端であり、ブログを始めた理由の一部ともいえます。

 しかしブログを始めようと思った最大の理由は、自分の急速な変化を感じたからです。僕は現在大学を卒業し、新社会人として社会の海の藻屑にならないよう日々仕事に邁進しているわけですが、環境の変化と、大学四年になってから今に至るまでの心境の変化が、僕の中にある予感を呼び起こしました。

「もしかして俺しばらくしたら、以前と全然違う人間になってるんじゃないか?」

自分の急速な変化というのは端的に言うと、なんかめっちゃ真人間になっていってる気がする、というものです。生まれてから二十年余りの人生、僕の意識も生活も、正直言って怠惰極まりないものでした。本当に極まりないかどうかと問われるとたぶん僕よりも怠惰な奴はいるんでしょうが、ゆとり世代である周囲と比較してもさらに時間にゆとりのある生活を送ってきたものですから、かなり骨の髄まで怠け癖がついていました。忙しい方が充実感があるという人の感性にははっきり言って全然共感できませんし、暇な時間、何にも拘束されない時間が長いというのは素晴らしいことじゃないかと思うタイプです。

そんな人間が、どうしたことか今は仕事面でもプライベートでも割とやる気に満ちているのです。そのやる気というのは単に人生が楽しくなってきたから生まれたものというよりは、頑張らなきゃいけないんだという義務感に近い感覚から生まれたものなのですが、今の僕はその義務感が重荷になって暗い気持ちになるということが起こっていません。それどころかデレマスの島村卯月バリにがんばります精神が喚起されているのです。

いえ、島村卯月バリは誇張表現でしたが、四分の三しまむーくらいにはがんばりますって感じです。あくまでも今現在の話ですがね。

この変化自体は、恐らく一般的な価値観で考えれば良い傾向といえるでしょう。別に僕もこの変化そのものを問題視しているわけではありません。僕が不安に思っているのは、これまでの自分が考えていたことや感じていたことを、僕が数年と待たずにすっかり忘れてしまうんじゃないかということです。

 

だから自分の考えを、想いを、言葉にして残しておきたいと思った。

 

 過去の自分が考えていたことを思い出せなくなるというのは、生きていれば誰でも体験することではありますし、なんなら今だって、中学生の頃考えてたこと一つ一つ思い出せるかと聞かれたら既にけっこう薄れてきてきてます。でもできるだけ忘れたくないし、思春期から青年期の頃の自分が感じたことは、できる範囲でいいから残せるものは残したいと考えたわけです。

そんなわけでこのブログは、思ったことをつらつら書き連ねていくよ~っていうコンセプトで基本やっていこうと思います。要するになんかいい感じの雰囲気を醸したつもりで独り言をつぶやいていくだけのものです。まぁそんなこと言ったらブログって独り言ですから、話が始まりません。

以前自分が考えていたことを掘り起こして書き残しておく場合もありますし、今変遷の中にある自分が感じていることをアウトプットする場合もあるでしょう。過去の自分の感覚をちゃんと思い出せるかどうかは微妙なので、どちらかというと後者のパターンが多くなるんじゃないかなと思います。コンセプト的には前者も力を入れていきたいところですが、今の自分も結局過去になりますから、どちらの作業も長期的に見れば大差はないかと思います。

 

余談として、「別にブログとして公開する必要なくね?」って思った方の疑問にお答えしておきます。

ブログとして公開する理由は、

・一人で黙々とやるよりも、もしかしたら何か読み手からレスポンスが返ってくるかもしれない形でやった方がモチベーションが上がるから

・他人に「ブログやります」って言った以上、すぐにこの心情吐露をやめるわけにはいかないという気になるし、ある程度この《思考や感情の切り取り作業》が持続できる(可能性が高い)から

です。

Twitterも言葉を発信するツールではありますが文字制限が厳しいですし、何より新しいツイートで言ったことがどんどん後ろに流されていくので実質的に残せない。わざわざ心情吐露のためだけにアカウントを作るのもなぁという感じがしますし、ブログの方が色んな意味で適していると考えました。

切り取る形は別に言葉じゃなくて写真でもよかったし、ビデオでも、絵でも音楽でもよかったんですけど、言葉の方が自分っぽいかなと思いましたし、はてなブログの仕様とか、ページの見栄えをよくする方法とかまだ全然分かりませんが、可能な更新頻度で細々とやっていく予定でございますので、今後ともよろしくお願いしますm(_ _)m