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砂時計と額縁

自分が考えたこと、感じたことを切り取って残しておく場所

望むところと望まざるところ

前回の記事で、「体力大事」の一言で済む内容を長ったらしく書き連ねたミナモでございます。前の記事を書いた後で読み返しながら思ったことがあるので、今回はそれについて書こうと思います。

以下に前記事のリンクを貼りますが、関係があるのはごく一部なので読んでも読まなくても結構です。

minamofukami.hatenablog.com

 

過去の自己認識

 

前回、僕は「体力だけ有り余っていてもやりたいことがないのは切ない」と述べました。このときの「切ない」という言葉は、少なからず「悲しい」という意味合いを含んだもので、それは僕が意図的に込めたニュアンスです。これは、記事を書いているときの僕の考えで間違いありません。しかし、ふと思ったのです。

「あれ、そういえば当時の俺って自分のこと悲しい奴だとか思ってたっけ?」

高校生のときの自分の気持ちをリアルに思い起こすことはもはや叶いませんが、記憶している限りでは自分をあまり悲しい人間だとか哀れな人間だとか、そんな風には考えていなかったように感じます。

より詳細には、特にやりたいことはありませんでしたし、「やりたいことが欲しい」ともそんなに強く考えていなかったと思います。ただ、友人曰く高校時代の僕の口癖が「なんかおもしれ―ことね―かなー」とのことなので、退屈はしていたようです。

当時のやりたいことというか目標的なものを強いて挙げるとすれば、サラリーマンになるのがイヤだからラノベ作家にでもなって印税生活してえなぁとか舐めたことを考えていた記憶があります。とはいっても何か小説を書いてみるわけでもなく、物語の妄想とかはしてましたが、高校生時代に何か作品を書いたことは結局ありませんでした。

「そんなに強く願っていなかったから書けなかったんだ」と言うと捉えようによっては言い訳のようでもあります。実際当時の僕の行動力を仮にスカウターで図ったとしたら0.0000721とかだったと思うんで(適当)、ある程度強く願っていたとしても長編小説1冊分を書き上げることは相当難しかっただろうと思います。書き上げられる可能性もあったかもしれませんが、どちらにせよ所詮はIFの話です。

ちなみに今の私の行動力は0.53です。言いたかっただけです。ぶっちゃけ分かりません。

話を戻しましょう。とにかく高校時代の僕は「やりたいことが欲しいけど見つからない」、「他の人と比べて充実していないし虚しい」というような方向に意識が向かわなかったので、中高実質帰宅部みたいな経歴の割に(?)異常に卑屈になったり、過剰に自己評価が低くなったりはしませんでした。

要するに当時の僕は、全くないとは言いませんが自分のことを切ない人間だとか悲しい人間だとはあまり考えていませんでしたし(客観的につまんねー高校生活なんだろうなとは思っていました)、自分を変えたい、変わりたいと強く感じることもなかったように思います。

 

説明不足だったこと

 

やりたいことが欲しいけれどもなくって、そんな自分を悲しい人間だと思うのは自然だし、実際そういう人は悲しい人間なんだと思います。

けれども、やりたいことがなくても、そういう自分に不満を持っていなくてこれでいいと思っているなら、それはそれでその人の在り方だし、その人はなんら悲しい人間ではありません。

前回の僕の言葉は、人の状態にのみ目を向けていて、本人の意向を全く考慮していませんでした。「やりたいことがないのは悲しい」だと色々説明不足だったわけですね。「やりたいことが欲しいのに見つからないことは悲しい」という表現が適切でした。

例えば彼女がいらなくて彼女がいない人と、彼女が欲しくて彼女がいない2人の心理を考えてみてください。前者の人は欲しいと思っていないものがないだけなのでなんともありませんが、後者の人は欲しいものが手に入っていないので満たされないという感覚があるはずです。

その人が不幸かどうか、つらいかどうかは単なる状態ではなく、「欲求が満たされていない」「願望がまだ成就していない」「自分の願いは叶わない」という不満や欠落感や絶望感があるかどうかによって決まると個人的には考えています。先程とは逆に、やりたいこと(目的や目標)がある人の場合、目的や目標が達成できない――つまりやりたいことができないことが当然苦悩(悲しみ)になります。

その人の望むところと望まざるところを知らずして「あの人は悲しい人だ」と他人が勝手に断定するのは失礼なことですし、すなわち前回の僕の発言は失礼な発言だったわけです。過去の僕と、目的もなく生きる自分を肯定する全ての人に対して。

 

自分は自分、他人は他人

 

先程、やりたいことがなくてもそんな自分に不満がなくこれでいいと思っているなら、その人は何ら悲しい人ではないと述べました。けれども実際問題、自分の生き方を意固地にならずに自然と肯定できるというのは結構難しいことです。

全く周囲と自分を比較しない人というのは滅多にいるものではありませんから、例えば先ほどの彼女がいらなくて彼女がいない人も、仮に周囲の友人が続々と彼女を作っていったり、その人たちから「お前も早く彼女作れよ」と言われ続けた場合、自分だけ彼女がいないのは居心地が悪いとか、自分だけ劣っているように感じるかもしれません。

そうすると本来的には望まないものを周囲からの見えない圧力のようなものによって結果的に望んでしまうことになりかねません。あるいは、周囲が持っているものを持っていない自分に対して、過剰に低い自己評価を下してしまう場合があります。別に持っていないことが悪いことでも劣っている証拠なわけでもないのに。

特に現代はSNSの普及もあって、他の人が望むものや持っているものが見えやすい。というか、SNSユーザーとしての率直な言い回しをさせていただくなら、見せつけられます。これは別に僕がそれを不快に思うとかそういう話ではなくて、そういう周囲の「こんなことがあった」「今自分はこんなことをしている」に、変に引っ張られちゃいけないよなー、と思うのです。

他人に影響を受けることそのものは悪いことではありません。けれども、周囲と自分の持ち物を見比べて、自分の悪い自己認識を増長させるだけのものなら、そんな比較は不毛です。

他人の持ち物に惑わされないためには、自分が何を望んでいて、何を望んでいないのか少なくとも自覚している必要がありますし、その上で、まぁよく言われているように、自分と他人を比較し過ぎないことが大切なんじゃないでしょうか。自分が欲しいと思っていないものを他人が持っていても、羨んだり妬んだりする必要は全くありません。

自分は自分、他人は他人なのです。

隣の芝は青く見えるものですし、他人が抱えている苦しみというのは自分の苦しみと違ってリアルに感じ取ることはできませんから、そもそもちゃんと比較なんてできていないのです。自分と他人ということに関して有益な比較(分析)もないわけではありませんが、少なくとも先述のような比較は無益どころか有害です。

 

自分の望むところと望まざるところを自覚すること。他人の望むところと望まざるところを知らずして他人を判断しないこと。今回は僕自身のそういった判断基準を自分の中で再確認する機会になりました。僕は他人に必要以上に振り回されず生きていければいいなと思いますし、余計なお世話ではありますが、皆さんも皆さんそれぞれの価値観を大切に生きていけるなら、それがいいと僕は思います。